2013年4月10日水曜日

4月

雑記

3月長男コータ、卒園。昨年9月に引っ越し、転園せずに墨田区の幼稚園に電車通園。朝だけは、いっしょに幼稚園まで。貴重な時間だった、と今更思う。大事に大事につくった番組も3回目のシリーズを無事終えた。同時並行のプロジェクトもあり、なんとか終える。

4月ゴールデンウィーク前後に放送予定の番組が諸事情により秋に制作延期、少し時間が出来た。その隙間の時間をつかって、2泊3日で熊本に帰省。妻が頑張って、チケット、ホテルの手配をしてくれて、両親、妹夫婦、甥っ子、姪っ子と2年半ぶりに会う。今週、月曜、コータ小学校入学。火曜、かのが幼稚園入園。


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コータの入学式の日の朝、内田 樹さんのサイトで「学校教育の終り」を終りを読む。

http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php以下、上記サイトからの結論部分の引用。

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日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。


唯一の救いは、同じ傾向は世界中で見られるということである。
学校教育が国民国家内部的な装置である以上、グローバル化の進行にともなって、遠からず欧米でもアジアでも、教育崩壊が始まる(もう始まっている)。
だから、日本の学校教育の相対的な劣位がそれほど目立たなくはなるだろう。

もう一つだけ救いがある。それは崩壊しているのが「公教育」だということである。国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。
もともと私塾は公教育以前から、つまり国民国家以前から存在した。懐徳堂や適塾や松下村塾が近代日本で最も成功した教育機関であることに異議を唱える人はいないだろうが、これらはいずれも篤志家が「身銭を切って」創建した教育機関である。
このような私塾はそれぞれ固有の教育目的を掲げていた。「国家須要の人材」というような生硬な言葉ではなく、もっと漠然と「世のため人のために生きる」ことのできる公共性の高い人士を育てようとしていた。
それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。

私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。

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自分が切るべき舵が見えたような気がした。